雑学研究

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中国文学

宋・元・明・清・現代

宋の成立
 趙匡胤は高度に集権的な専制主義帝国の宋(960-1279)を樹立した。 節度使の権力を抑え、文官中心の能力主義を採用し、 地方行政費以外は中央に納税させる厳格な監察制度を敷き、 国内政治を改善した。 科挙の合格者を唐代には1回20-30人だったのを宋代には700-800人にして、 地主層の知識人へ政治に参与する機会を与えた。
 産業・商業も飛躍的に発展した。 鉱山開発、印刷、織物・製紙・漆器・染色・製塩・製糖の発達による 商品流通の増加と貨幣経済の確立は貿易を活発にした。
 学術では、思想において新儒学の宋学が生まれ、 史学において『新唐書』(欧陽脩)や『資治通鑑』(司馬光)が編纂された。
 詩歌では、北宋初期50年に典故を多用し、散文的で理屈っぽく、艶麗な詩風である西箟体が流行した。 詩の叙情性は、詞で発揮された。

欧陽脩 (1007-1072)
 経学と史学を背景に『唐書』225巻、『五代史』75巻を編集した。 作文の心得として「三多(看多、做多、商量多)」(=多く読み、多く作り、多く考える)を唱えた。

曽鞏 (1019-1083)
 道学的で難解な文に特徴があり、代表作は「戦国策目録の序」「墨池の記」である。

王安石 (1021-1086)
 神宗の宰相を経験し、政治的色彩と才気を特徴とする。 詩文では「嘆息行」「明妃曲ニ首」「江上」などがある。 だが、危機的な宋を中小地主と農民の利益の観点から再建しようとしたために政治と学問で中傷される。

三蘇
 蘇洵(1009-1066)と息子の蘇軾(1036-1101)・蘇轍(1039-1111)は三蘇と呼ばれた。 蘇洵は断定的な議論文に特色があり、代表作には「韓枢密に上る書」「二子に名づくる説」などがある。
 蘇軾は儒家思想を背景に大地主の観点から政治を行った。 作品はロマンティシズムと理屈が融合しており、詩2700首以上、詞300首以上があり、 散文に「范増論」「留候論」「日の喩」、詩文の全集に『東坡七集』がある。
 蘇轍は淡白で論理的な文を書き、史論「欒城集」「三国論」を残した。

陸游 (1125-1209)
 悲憤慷慨の詩と田園生活を仰ぐ閑適の詩があり、9300首以上が現存する。 代表作には慷慨系では「金錯刀行」「憤りを書す」、 閑的系では「村居して喜びを書す」「山村経行き、因りて薬を施す」がある。

辛棄疾 (1140-1207)
 古典への精通、慷慨悲壮の傾向に特色がある。

朱熹(=朱子) (1130-1200)
 朱子学(=宋学)とは、天地の存在を気と理で証明し、 聖賢になることを目的として道統を尊重し、 性(人間性)と理(道理)の一致を説く。 従来の儒学が五経を中心にしたのに対し、 四書(『論語』『大学』『中庸』『孟子』)を尊重した。
 文学では古典文学研究『詩集伝』『韓文考異』『楚辞集注』、 座談筆記集『朱子語類』がある。

元の成立
 騎馬民族の蒙古は1210年から漢民族の征服に手掛け、 1234年に北中国を支配していた騎馬民族の国家金を滅亡させ、 1279年に南宋を終焉させた。 日本に1274年と1281年に遠征したフビライは、 ヨーロッパ東部も併合して世界帝国を樹立した。
 蒙古は文筆の才能に乏しく、文学の担い手は漢民族であった。


 詩文の創作が市民に定着し、過去の詩を教養として取り入れたため、独創性が後退した。
 元初期の詩集としては、劉因(1249-1293)の『静修文集』21巻、 虞集(1272-1348)の『道園学古録』50巻、 楊載(1271-1323)の『楊仲弘詩集』8巻などがある。
 元末期の詩集には、イスラム系部族答志蛮出身の薩都刺(1308-?)の『雁門集』、 楊維驕i1296-1370)の『東維子文集』『鉄壁先生詩集』などがある。

元曲
 宋の雑劇・院本(北宋の雑劇)・諸宮調を母胎として民衆の新しい歌劇「元雑劇」(元曲)が生まれた。 元曲は、脚本が現存する演劇としても、空想文学としても、支那口語文学としても最古のものである。 構成は1本4折(幕)から成る。
 『梧桐雨』(白樸)
  玄宗が夢で楊貴妃と会うが梧桐の秋雨で目覚めて悲嘆する
 『録鬼簿』(鐘嗣成)
  元曲の作者110人の伝記と作品について記録
 『漢宮秋』(馬到遠)
  王昭君は画家毛延寿に賄賂を贈らないゆえに醜く描かれ、 漢の元帝の寵愛を受けられなかったが、元帝は王が美女であることを偶然知り、 王を明妃として、毛を罰する。毛は匈奴の首長の単于に王の美人画を献上し、 単于は戦争を起こしても王を得ようとした。王は匈奴に行くことにしたが、 国境の黒竜江で身投げする。単于は毛を縛して漢に送る。 元帝の悲嘆は毛を処刑しても尽きない。
 『西廂記』(王実甫)
  貧書生の張君瑞は西廂に仮寓していた名門の娘崔鶯々と知り合う。 崔が匪賊に包囲された時に崔の母親が張に助けてくれたら娘を嫁がせると言った。 だが、約束を果たさずに二人は逢う瀬を重ね、 母は張の進士及第を条件として結婚を認め、障害の克服後に大団円となる。

明初期
 中央集権の封建帝国である明(1368-1644)は漢民族が樹立した最後の王朝である。 太祖朱璋は丞相制度を廃止し、スパイ制度を採用して中央役人を監視した。 また、古典の共用よりも実用的な知識を求め、 『四書』の朱子学的解釈を定まった文体で書かせる八股文を導入した。

詩文
 進士になる前は八股文、その後は台閣体の詩文を作った。 台閣文とは平正典雅を尊ぶ宮廷文学の一種である。
宋濂(1310-1381):明文(明の文章)の開祖
 詩「秦仕録」、『元史』の編者
青邱(1336-1374):明の最大の詩人
 詩「宮女図」、『元史』の編者

小説
 俗語を用いた娯楽性の強い長編小説
 『三国志演義』:三国の英雄豪傑の活躍
  『全相三国志平話』:講釈師の語りを集大成した画入り物語
  『弘治本』:羅貫中が弘治7(1494)年に大幅に改訂
  『毛宗崗本』:毛綸が毛氏の子の宗崗の名で現在の形で刊行
 『水滸伝』:北宋末に山東で起きた農民蜂起
  施耐庵が作者であることが近年『興化県続志』で判明
 『西遊記』:空想的な仏教説話
  1576年頃の明の呉承恩の作
  『白猿伝』:霊性を帯びた白猿伝説が唐代に小説化
  『大唐西域記』:高僧玄奘の西天取経の旅行記
  『大唐三蔵取経詩話』:宋代に発展

明中期
 土地集中、農村破産、無能な専制君主の現実を無視した典雅な台閣体の文学が敬遠され、 新しい情感を表現する古文辞派(擬古主義)が登場する。 李夢陽(1472-1529)・何景明(1483-1521)などの前七子は「文は秦漢(『史記』)、詩は盛唐(杜甫)」と主張する。
 前七子の50年後に李樊竜(1514-1570)・王世貞(1526-1590)などの後七子が登場し、 徳川綱吉の側近柳沢吉保に仕えた荻生徂徠(1666-1728)に影響を及ぼす。

反古文辞
 古文辞に対立する公安派と意陵派が登場する。 公安派の袁宏道(1568-1610)は、文学は性霊の発露で、古文辞を模倣する態度は虚偽の産物であるとした。 意陵派の鍾惺(1574-1625)は、独創的な奇僻侮渋な文章を書き、学問を尊重する傾向を強めた。

帰有光 (1506-1571)
 形式よりも内容を重視して道の形としての文章を主張し、 弱者への同情の精神を持ち、質実で地味な表現に特徴がある。

李贄 (1527-1602)
 童心を評価し、『蔵書』にて、孔子の是非の判断も規準とならず、 各人は自己の是非の規準を持つべきだとする。

馮夢竜 (1574-1646)
 口語の短編小説を編集した『三言』(『喩世明言』『警世通言』『醒世恒言』)を刊行した。

モナコとインドネシア 国旗

清の成立
 明の制度を継承しつつ、満州族は清(1644-1911)を樹立した。 清は儒学を政治理念とし、科挙を実施して漢人を多く登用したものの、 漢人に満州風俗の辮髪を強制したり、言論弾圧したりして、 自尊心を傷つけたため、清に仕えない者もいた。 それを表す言葉が「生きて随うも、死しては随わず、男は随うも、女は随わず、 老は随うも、少きは随わず」である。
 異民族の支配下で繁栄した清の文化の特性として、 (1)主智的な要素が増大して文章が論理的になる、 (2)明の豪放な趣きから精緻へ変わる、 (3)寂寞の情が背景にある、 (4)非政治性の特色がある、と言える。


 王士禎:神韻派=象徴的で華麗な風到余情を尊ぶ
 沈徳潜:格調派=古文辞派と神韻派の流れをくむ
 袁枚:性霊派=在野的な立場で作詩する
 黄遵憲:自由な発想で叙事詩を作り、白話詩(口語詩)の先駆者となった

小説
 短編集
  『聊斎志異』(蒲松齢)、『子不語』(袁枚)、『閲微草堂筆記』(紀ホ)
   いずれも時事の表現をタブー視された社会における人間性の解放を妖怪変化に託して描いている。

 長編小説(18世紀)
  『儒林外史』(呉敬之)
   頽廃した科挙制度を諷刺した
  『紅楼夢』(曹霑)
   満州貴族の家庭生活での人間心理の動きを描写した

 長編小説(19世紀)
  『児女英雄伝』(文康)、『鏡花縁』(李汝珍)、『品花宝鑑』(陳森)、『海上花列伝』(韓邦慶)

 暴露小説(清末)
 『官場現形記』(李宝嘉)
  官界の裏面や腐敗ぶりを描いた
 『二十年目睹の怪現状』(呉沃堯)、『老残遊記』(劉鶚)

 戯曲
 『十種曲』(李漁)
  玄宗と楊貴妃の故事を描いた
 『長生殿』(洪昇)、『桃花扇』(孔尚任)
  明の文人候方域と名妓香君との悲恋を描いた

京劇
 「伝奇」の楽曲は明末に南方から生まれた箟曲であったが、 18世紀末に湖北省や陜西省から皮黄と呼ばれるものが出現した。 これが京劇である。

現代
文学革命
 1911年10月10日、武昌の湖北新軍が蜂起して湖北軍政府を樹立し、 11月下旬には24省中14省が清朝からの独立を宣言した。 翌年1月1日に孫文が臨時大統領となり、 2月12日に清帝退位の上論が出て、帝政が終焉した。
 陳独秀が『青年雑誌』(『新青年』)において文学に関する六ヶ条を宣言した。
  1.自主的であり奴隷的でない
  2.進歩的であり保守的でない
  3.進取的であり退嬰的でない
  4.世界的であり鎖国的でない
  5.実利的あり虚文的でない
  6.科学的であり空想的でない
 胡適は八ヶ条の文体改革案を提案した。
  1.言うことには内容がなければならない
  2.古人を模倣してはいけない
  3.文法に合致しなければならない
  4.無病の呻吟をしてはいけない
  5.陳腐な表現をつとめて除く
  6.典故を用いてはいけない
  7.対句をみだりに使わない
  8.俗字・俗語を避けない
 陳独秀は19世紀の民主主義的・市民的・人道主義的文学 (ユーゴ、ゾラ、ディケンズ、ホイットマン)に親近感を抱き、 貴族文学・古典文学・山林文学を打倒し、国民文学・写実文学・社会文学を目指そうとした。

魯迅 (1881-1936)
 処女作『狂人日記』(1918)
  中国の精神的支柱を礼教と見て、 この圧力によって被害妄想狂に追い込まれた主人公の眼を通して、 「人が人を食う」家族制度の虚偽を暴露した。
 中篇『阿Q正伝』(1921)
  主人公阿Qは辛亥革命後の極貧農民層に属し、自尊心が強く、 事実関係を逆転する精神的勝利法を知っており、 当時知識人の奴隷的精神の本質を象徴している。
 短編『孔乙己』(1919)、『故郷』(1921)、『祝福』(1924)

五・四運動
 第一次世界大戦の間は列強の中国への圧力が緩み、民族資本が成長して各階層の民族的な自覚が高まった。 段祺瑞の軍閥政府は中国から敗退したドイツ権益の継承と拡大を求める日本の21ヶ条の要求に屈服しようとしたが、 これに北京を中心とする学生5000人が反対して1919年5月4日に示威運動を起こした。 この運動は労働者・商工業者にも拡大し、全国的な反封建・反帝国主義の愛国運動に発展して 政府は平和条約の調印を中止した。

芽盾 (1896-1981)
 処女作『蝕』三部作
  革命運動に参加し、武漢政府の政治部で宣伝を担当した経験が反映
 『子夜』
  上海を背景に民族資本家の外国資本・売弁資本・軍閥に対する苦闘と挫折を描く

郭沫若 (1892-1945)
 詩・小説・戯曲・評論・自伝の各分野で活躍した。
 1924年に「我々が現在必要とする文学は、第四階級の話言葉に立つ文学であり、 このような文学は形式において写実主義的・内容において社会主義的である」 と述べた。
 『我的幼年』
  波瀾に満ちた中国の近・現代で生きる社会的人間の姿を描く

郁達夫 (1896-1945)
 社会的・個人的な矛盾に悩んだ憂鬱の浪漫主義者。
 『沈淪』
  退廃的な傾向を帯びた自己暴露