雑学研究

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桜の文学史

  春雨は いたくなふりそ 桜花 いまだ見なくに 散らまく惜しも  (万葉集)
    訳:春雨よ柔らかに降れ、まだ見ぬ花を散らすなよ

 兼好は「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」(徒然草)と言いましたが、それは武士達が貴族を真似た「(桜のもとで)酒のみ、連歌して、はては大きなる枝、心なく折り取りぬ」という似非花宴に対する冷笑であり、散った桜を賞揚するものではありません。
 染井吉野、枝垂桜、山桜といった代表的な桜の開花時期は3月から4月にかけてですから、もうそろそろ終わりですね。これからは、豆桜、深山桜などのマイナーな桜が開花します。そして、夏を飛び越え、9月下旬に咲く「博打の木」という桜もあります。

 文学における桜の系譜を少し辿ってみましょう。桜が歴史上初めて登場するのは『日本書紀』です。そこには帝の酒盃に花ビラが風に誘われて浮かび、その桜のある場所を物部氏に探しに行かせるというエピソードが記されています。花見の習慣は1500年も前の饗宴に端を発していることが分かります。
 2つめの記録は『万葉集』です。「去年の春 逢えりし君に 恋にてし 桜の花は 迎へけらしも」、「あしひきの 山桜花 一目だに 君とし見てば 吾恋めやも」と、ここでは桜に乙女の面影を求めています。この背景には、4世紀以来の大規模な開発(原生林伐採)によって、常緑照葉樹林から桜や赤松といった二次林へ更新され、大和の春の山を桜が埋め尽くし、観られる花となったということがあります。
 次に王朝に目を転じると、『古今和歌集』には、平城京から平安京への遷都によって、奈良を郷愁する歌が多く見られます。桜に囲まれた平城京を忍んで、桜を歌い、また新都に桜を移植し、それを歌ったものもあります。この『古今和歌集』以来、桜が日本の花として定着します(それ以前は梅が主流だった)。
 そうした治世の端祥としての桜観、輝く美少女としての桜観が変わるのは、近世の元禄文化に台頭した歌舞伎の中においてです。竹田出雲の『仮名手本忠臣蔵』は判官切腹の場の演出に散る桜を用いました。この中の台詞「花は桜木、人は武士」が、桜観を大転換させたのです。かつて聖樹であり、美の極みであった桜は、歌舞伎というドラマ空間で散る生命の花になりました。やがて、幕末、革命志士達は桜を散る我が生命として好んで歌うことになります。
 そして、その死の花としての桜観を増幅したのが、江戸府下豊島郡染井村で発見された大島桜と江戸彼岸の交配種である染井吉野の流行(明治維新以後、全国に波及)です。染井吉野は花つきの多い、花期の長くない桜で、その花期の短さゆえ、人を死の無常観へ導きました。近代最初の桜文学である樋口一葉の『闇桜』は、薄命だった美少女の死を、染井吉野の落花に象徴しました。
 やがて、明治末期、大和田健樹の「歩兵の本領」の陸軍唱歌は、武人の死を鼓吹することで、桜が軍国の花(国華=国粋イデオロギーの象徴)、靖国の花、戦没碑を飾る花となり、桜は桜自体の美を離れてしまいました。
 しかし、桜は本来、死の花ではありません。梶井基次郎が「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と言いましたが、それは咲き極まった桜に生の輝きの極点を、つまり、死からの転生を見たのであり、そこに散る桜の姿はありません。それゆえ、人は自然に次のような思いにかられるのでしょう。
 桜花 咲きかも散ると 見るまでに 誰かも此処に 見えて散り行く  (万葉集)